OM707/OM101とOM-AFレンズとは

この「OMマニア」を作るにあたり、当初は「OM707とOM101のいわゆる3桁シリーズについては、OMシリーズとしての矜持を感じられないので、本ホームページでは紹介しない」としてきた。

人の心の遷り変わりは激しいもので、「紹介しない」としてたにもかかわらず、プラカメにも興味がでてきて、OM707/OM101がどんだけ面白いカメラなのか(逆な意味で…)関心がでてきて、、OM101を触っているうちに「あれ?かっこいいなぁ」と思うように・・・。

ということで、今回の記事は、 OM707/OM101 とその OLYMPUSレンズ (OM-AFレンズ)についてその歴史から紹介したい。

αショック

1984年までのAF一眼レフといえばペンタックスME-F 、オリンパスOM-30、ニコンF3AF、ミノルタX-600、チノンCE-5 など、レンズ駆動型のAF一眼が存在してたのだが、専用レンズに電源・モーターを搭載して大きく重く、AF専用レンズのみのAF機能対応であり、合焦速度もとても遅く、とても実用的なものではなかった。

1985年(昭和60年)2月 、 私が高校を卒業する直前だったが、 ミノルタから衝撃的なAF一眼レフカメラが発売された。

「α-7000」 だ。

ミノルタ α-7000は、ボディ内にレンズ駆動用電源やモーターを搭載することでフォーカスの速度や精度もマニュアルフォーカスと遜色ないレベルになり、豊富なAFレンズ群を抱える実質的な世界初のオートフォーカス一眼レフカメラシステムとして発表されたのだ。

ちなみに私も、結婚し子どもができたばかりのころ ミノルタ α-7000 にはとてもお世話になった。いつのまにかミノルタに鞍替えしたのもこのころだ。※結局またOLD OMに戻ってきたのだが。

OM707

α7000 の出現がカメラ業界に与えた影響は大きく「αショック」と呼ばれるようになった。以来各メーカーはAF一眼レフシステムの開発へと全力を傾け、日本光学、京セラなどからα-7000の対抗機が次々登場する。

そのような中、1986年(昭和61年)オリンパスから満を持して発表されたのが「OM707」なのだ。

デザインはα7000によく似たイメージだ。名前も7をつけて、よっぽど意識していることがうかがえる。

ある意味、「メーカーあるある」だが、 開発側には営業側からの強い要請があり、対抗製品の開発を急かれたのだろう。 対抗馬を出すことが目的となった製品開発の結果、品質は二の次となり・・・。

こうして産まれたOM707の評価は決して高くない。とても気になるのは、基本性能の低さだ。このOM707の不満情報は数々のブログなどのコンテンツで紹介されているが、私なりに少しまとめてみる。

  • 露出は完全オートのプログラム露出のみ。
  • マニュアルによる露出設定ができない。
  • 絞り優先AE/シャッター速度優先AEすらできない。
  • OLD ZUIKOレンズを装着するときは強制的に絞り優先AEになる。だが、シャ速の表示も露出オーバーアンダーの表示すらない。
  • 露出補正ができない。(AEロックはある)
  • オートフォーカスをマニュアルフォーカスへの切り替えはパワーフォーカス(PF)で。※レンズにピントリングはなく、スライドボタンによりモーターで焦点を調整する仕組み
  • パワーフォーカス(PF) はスライドボタン操作。使いにくいのなんの。シビアなピント合わせは曲芸並みのスキルが求められる。
  • スクリーンが交換できないので、 パワーフォーカス(PF) でのピント合わせは一苦労。
  • 電池ケースの蓋はスライドさせると外れるタイプ。しかもプラスチック製で、強度も弱い。中古市場でもここはかなりの頻度で壊れている。(経年劣化しやすい構造)なので壊れるか無くすか。なくなったらもうこのカメラは使えない。
  • レンズはマニュアルフォーカスリングも絞りリングも脱着レバーも存在しない。ただ、はめるだけで(マニュアルでは)何もできない。
  • 大きさもα7000よりかなりゴッツく大き目。※コンパクトを売りにしてきたオリンパスなのにどうして!?

こうしてOM707は、「発売することのみを目的にした商品は、必ずしも良い商品となりえない」という格言を証明してくれた商品となった。

OM設計者で取締役であった米谷美久氏も「こういうオートフォーカス機は私の趣味ではない」とコメントしていたという。

ただ、グリップ部にポップアップ式のストロボを内蔵したことがとてもユニークだ。グリップを交換式にするという発想が面白い。もしかしたらハイパワーのモータ内蔵グリップ。長時間電池搭載グリップなどグリップ交換によるあたらしい拡張性を考えていたのかもしれない。

他にとりえがないからユニークな発想で勝負したのか。いま思うと、追随しようとするだけのモノマネではなく、アイディアによる独自性を出すことを忘れていないあたりが、さすがオリンパスと感心する。 ただ、残念ながら市場では一眼レフとして評価されなかった。

ただ、OM707に限らず、 当時のα-7000 追随組の製品は皆チャンガラモノだ。

Nikon F-501はオリンパスと同様マウントを共有させて古いレンズも付けられるようにしただけでなくMF機能やマニュアル露出など配慮ある製品だ。けれどもAFは遅いし迷いまくるし。AF性能は α-7000や OM707に遠く及ばなかった。α-7000とOM707の AF性能は 同じような感じ。 もしかしたら同じ ハネウェルの特許をつかっていたからか?

京セラの230AFもペンタプリズム部に着脱式のストロボを装備した OM707にも似た変わり種。壊れやすくAFも実用的でないと不評だった。

そんな中、α-7000は発売と同時に飛ぶように売れ、低迷を続けていた一眼レフカメラ市場を活気づけることに成功。

その後α-9000という上位機種、次世代機の発表(α-7、α-9)まであり、このままミノルタが業界の覇権を握るのかと思われた矢先。。。 

第二のαショックが起きたのだ。。。

ハネウェル特許訴訟事件

1987年(昭和62年)4月、米国のハネウェル社が突然α-7000の自動焦点機構が自社の特許を侵害していると主張して、ミノルタに裁判を起こした。

オリンパスとしては戦々恐々だったのではないか。だって、OM707も同じ ハネウェルの特許を利用してたんだもん。

α-7000は売れているから訴えられた。 OM707 は売れてなかったからすぐには訴えられなかった?のだろうか。売れている商品はたたかれる。覇者の宿命だが、オリンパスとしては「次は我が身」と考えていたのではないか。

結局1992年3月にミノルタがハネウェル社に約165億円の和解金を支払って裁判は終わった。和解金以外にも損害賠償やαの販売価格の10%の使用料を払い続けたらしい。その後ミノルタ社は衰退しついには 2003年8月にコニカと経営統合し、コニカミノルタとなってミノルタの名は消滅することになる。。

OM101

ハネウェル社が裁判を起こした翌年の1988年2月、OM707の後継機としてOM101が発表された。α-7000の後に出たのがα-9000なのだから対抗してOM909としてもよさそうなものだが、いきなり101にリセットした感じになった。

それというのも、 OM101はパワーフォーカス(PF)機でありオートフォーカス機ではないのだ。同時発売のレンズもPF専用レンズとしてオートフォーカス機構が取り除かれた。

すなわちOM707は最初で最後のフイルムカメラ・レンズ交換式AF一眼レフとなった。 つまり撤退したのだ。

裁判がはじまったころのオリンパスはミノルタが負けることが既にわかっていたのだろう。負けるとわかっていたから。自主的に身を引いたのだ。ただ、結局オリンパスも ハネウェル社から訴えられ42.3億円支払ったらしい。

(言い方は悪いがハネウェルにボラれたんだよね。) 

OM707は発売を急ぐあまりに実に品質を無視した中途半端な製品になってしまった。そこで次作機にはかなり反省点を盛り込んで設計と開発を大いに見直し力作をめざしたのだろう。その証拠にOM101はそのデザインも内容も完成度がとても高いカメラだ。

ところが開発中にハネウェル社の訴訟問題がありAFから撤退することになった。さらに設計も見直したのだろうし、開発チームはかなりの苦悩と議論をへて パワーフォーカス(PF)機 として発売することになったのだ。

かつてOM10がマニュアルアダプタというマニュアルを拡張オプションするという商品で市場を驚かせた。じつはこのOM101はOM10同様にマニュアルアダプタがオプションで存在する。ちょっと幅が大きくなってコンパクトなOMとは言えなくなるのが難点だが、マニュアルが使えるようになるのはありがたい。

左が マニュアルアダプタ未装着、右が マニュアルアダプタ 装着の状態だ。

こうしてまたオリンパスらしいユニークなコンセプトのカメラの誕生となったわけだ。そこが面白いところ。

実はOM101の内部には、なぞの空間がある。ここには本来AF機能の基盤を設けていた場所だ。発売後もマイナーチェンジでAF付として発売する可能性も考慮して空間を残したのだろう。裁判でミノルタが逆転勝訴した場合の処置だ。

結局、ミノルタは負けた。OM101も売れなかった。デザインはかっこいいし、パワーフォーカス機としての操作はとても快調で心地よかったのでとても残念だが、その時代の市場は本格的なオートフォーカスカメラシステムを求めたのだ。そのニーズに答えることに成功し業界の覇者として君臨したのが結局のところ後出しジャンケンのキヤノンのEOSシステムだった。。。。

オリンパスはOM707/OM101ともに大失敗作との烙印を押され、フィルム式の レンズ交換式AF一眼レフから撤退というオリンパス・カメラ史の黒歴史を刻むことになる。

OM-AFレンズとは

そんな背景があって、 OM707/OM101ともに短命に終わった。その 専用 交換レンズの種類も少なく発売期間も短く出荷量も少なく、中古市場ではとても稀少な存在だ。

この専用交換レンズ群にはZUIKO(ズイコー)の称号は与えられていない。 「OLYMPUSレンズ」というのが正式だ。マウントはOMマウント(改良型)なのでOMレンズの部類だ。そこで本レンズ群をこのサイトでは「OM-AFレンズ」と呼ぶことにした。

※正式にはPFレンズも混ざっているが、まあそこは多めにみてね。

「OM-AFレンズ」 軍は次の10種しか発売されなかった。

  • 24mmF2.8AF
  • 28mmF2.8AF
  • 50mmF1.8AF
  • 50mmF2PF
  • 50mmF2.8AF
  • 28-85mmF3.5-4.5AF
  • 35-70mmF3.5-4.5AF
  • 35-70mmF3.5-4.5PF
  • 35-105mmF3.5-4.5AF
  • 70-210mmF3.5-4.5AF

35-70mmF3.5-4.5AFと35-70mmF3.5-4.5PFは、前述のとおりハネウェル特許問題の関係でAF機構を付けなかったのがPFとなっただけだ。なので中身が全く同じ。50mmF1.8AFと50mmF2PFも絞り値がわずか違うがほぼ同スペックだ。したがって、同等のものを除くと8種類程度になる。

せめて21mm、85mm、100mm、200mmぐらいで明るめの単焦点があれば現在でも使えたのになぁ。とても残念だ。

でも流石に映りは素晴らしいハズ! OLD ZUIKOにはない設計のレンズもあるらしいし、同スペックでも写りが改善されているのもあると聞く。

そう考えるとこの OM-AFレンズを何としてもデジタルで使いたい。

私は当初カメラと同時に入手しやすい50mmF2PFと35-70mmF3.5-4.5AFしかもっていなかったのだが、それ以外の稀少種(?)を 縁あって海外の知り合いが譲ってくれ、全種そろえるのに成功した。

そこでマウントアダブターを探す。だが探せど探せど存在しない。レンズそのものが少ないのだ。利用者も少なければマウントメーカも製品にできないだろう。

そこで OM-AFレンズをソニーα.Eマウントへのマウントアタプターをついに自作したのだ!

難しかったのは、この OM-AFレンズ は、ピントも絞りも脱着まで全ての機能がカメラ側に依存してることだ。すなわちレンズの全ての機能がマウントアダプター側でできるようにしないといけない。

さてどうやって作ったのか。この続きは次のブログのお愉しみ・・・。つづく

昭和のアイドルと「 宇宙からバクテリアまで」

昭和のアイドル

OM10のキャンペーンガールであった大場久美子さんには「一億人の妹」というキャッチフレーズがついていた。

昭和のアイドルにはたいていこのようなキャッチフレーズがあって、その個性を印象強く打ち出し売り出していたわけだ。

ちなみに主な昭和アイドルのキャッチフレーズがこちら。

石川秀美|さわやか天使
荻野目洋子|ハートは、まっすぐ。
柏原よしえ(柏原芳恵)|ちょっと大物
河合奈保子|ほほえみさわやかカナリーガール
菊池桃子|REAL1000%
小泉今日子|微笑少女
酒井法子|おきゃんなレディ
中森明菜|ちょっとエッチな美新人娘
西村知美|一秒ごとのきらめき…知美
早見優|少しだけオトナなんだ…
松田聖子|抱きしめたい! ミス・ソニー
松本伊代|瞳そらすな僕の妹
山瀬まみ|国民のおもちゃ新発売

いま思えば、アイドルも商品だ。昭和のアイドルであっても、こうしたコンセプトが個性豊かで印象的なキャラの人物は、平成末期の現在までもしっかり活躍されている。コンセプトがしっかりしていることが商品をヒットさせる極意といえるのだろう。

宇宙からバクテリアまで

さて、本題だが、「宇宙からバクテリアまで」とはOLD OMシリーズの製品コンセプトだ。
オリンパス社のホームページににかつて表示されていた説明を一部抜粋しよう。

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一眼レフカメラの「三悪」克服
「大きい」「重い」「シャッターの作動音、ショックが大きい」という3つの欠点
「三悪」。
これを追放したのはOMシリーズです。
世界最小最軽量のボディと【 宇宙からバクテリアまで 】というコンセプトを実現するための壮大なシステム。
OMシリーズは、大ヒット商品となりました。
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これまでOLD OMシリーズを研究してきて、つくづく思うのは、モノづくりには基本があって、当時のオリンパスはその通りにやってるなーということだ。

売れるモノづくりの基本とは

1.よいコンセプトがある

その製品が目指している方向性や特徴を一言であらわすことだ。
よく、長いプレゼンのあと聴講者から「ひとことで言ってどういうこと?」と聞かれることがあると思う。
一言で言いきれるフレーズで表現できるコンセプトがいかに大切か。

2.特徴/個性がある

後発メーカであればなおさらだ。
先発と同じような商品で勝ち目はない。
いかに先発がもっていない領域を探すかだ。

新しい市場を開拓してこそ、市場占有率を高める手段となる。オンリーワンとはナンバーワンを目指すための手段なのだ。

5台カメラメーカの中で一眼レフ市場にはオリンパスは最後に参入した。だからこそ、強烈な特徴とオリジナリティが必要だった。

その点では、そもそも「顕微鏡メーカ」であるオリンパスの本来の得意分野である「ミクロ領域からマクロ領域まで幅広いシステムが構築できる」というコンセプトは正しい。

だが実際にはそれで売れるとは限らない。

やはりOMだけが、非常にコンパクトで軽くて静かという強烈な個性があったのだ。だからオンリーワンであり、小さい一眼の新しい市場ができた。ニーズをもつユーザもそこにあったのだ。

 

3.品質のこだわりを捨てない

開発した、米谷美久氏が素晴らしい方だったからこそなのだが、米谷氏の素晴らしさとは「写りのこだわり」を捨てなかったことにあるだろう。

こだわりとはなにか。

OMの場合であれば、第1に品質だ。そして第2に商品特徴だった。

品質を保つためにはたとえ商品の特徴を捨てても構わない。特徴を出す(売れるようにする)ためだけに品質のこだわりを捨てたりしないということだ。

それはズイコーレンズをみればわかる。

小さく扱いやすいレンズが多いものの、小さくしたために写りがわるいなんていうZUIKOレンズは一つもないのだ。

中には逆にサイズを大きくしたレンズもあるぐらいだ。

いかに品質にこだわるかが大切なのだ。

penにしてもXAにしてもその後のμにしてもコンパクトカメラであるにもかかわらず、プロがサブ機として選ぶぐらい写りには定評があった。

商品の品質はそれだけで営業をしてくれるものなのだ。

中森明菜とOM

商品づくりには「コンセプト」「特徴」「品質」が大切と述べた。

これに付け加えると、「真似をしない」ということがあげられる。米谷氏のインタビューにもあったのだが、「今あるものは作る必要はない。ないから作るのだ」との発言があった。
今なお心揺さぶる言葉だ。トップの真似をしないことも売れるモノづくりとして必要なことだろう。

 

さて、冒頭の昭和のアイドルのケースで言えば、中森明菜のキャッチフレーズは「ちょっとエッチな美新人娘」だった。

昭和の時代のアイドルが「ちょっとエッチ」とは、鮮烈な印象だっただろう。注目は集めたはずだ。でもそれで売れたわけじゃない。やはりその後の明菜の個性だ。

当時トップアイドルは松田聖子。他のアイドルたちは髪型や振り付けまで聖子のコピーのようだった。でも明菜だけは違った。ダークな歌をうたい。ちょっと不良ポイ。アイドルらしくない振る舞いが個性となった。で、歌は最高にうまかった!(最高の品質!)

中森明菜はOMシリーズと重なる。

 

OMが登場した1970年代初頭、当時のトップはダントツ、ニコンだった(1980年代前半くらいまではニコンのカメラが圧倒的にシェアが強かった。1990年代からキヤノンがシェアを拡大し、現在まで長らくキヤノンが圧倒的に強い)

で、当時はキヤノンをはじめとした他のメーカ達はしきりにニコンっぽいカメラをつくっていた。

そんな中、新規参入のオリンパスのOMシリーズは、他のカメラの特徴の真反対をいく「小さい」「軽い」「静か」というカメラづくりにこだわった!(現在これはあたりまえになったが)

そして写りは最高に良い。まさしく、中森明菜じゃないか!

こういう取り組みが商品開発には必要だよね。

大場久美子とOM10


70年代後半になってくると、日本もようやく高度成長期を抜け経済大国として世界に頭角を現しつつある時代だった。

それまでのプロ・セミプロ向けだった一眼レフが、若者にも人気がでてきた。若者でもこぞって一眼レフを買える時代になったのだ。そして電子技術の向上から、オートによる撮影技術が生まれ、気軽に撮れる時代になったことにあるだろう。

35mm一眼レフカメラの自動化・電子化は時代の流れだったのだ。

そのきかっけとなたのは1976年(昭和51年)4月発売開始のキャノン「AE-1」だったのかもしれない。

その後、マニュアルを省いたAE専用機というものが登場してくる。できるだけ部品数を減らし安価にして若者にも購入しやすくした製品だ。

  • 1979年 OLYMPUS OM-10
  • 1979年 Canon AV-1
  • 1979年 PENTAX MV1
  • 1980年 MINOLTA X-7
  • 1980年 Nikon EM
  • 1982年 PENTAX MG

om10この中でもOM10については特に特徴的で、マニュアルを省いた「AE専用機」という位置づけにもかかわらず、別売りのマニュアルアダプターを取りつけることでマニュアル機なるという、あくまでも基本は「AE専用機」である姿勢を崩していないのが今となってはおもしろい。

そもそも値段をボディ単体で5万円以下にすることが目的だったことから、マニュアルという本来は機能のマイナスをオプションで追加するという・・・。こういう逆転の発想があるところがOLYMPUSのおもしろいところなんだよな。

これらAE専用のターゲット層が若者であることから、各社、それまでの小難しい一眼レフのイメージを払拭するためか、若い女性タレントをコマーシャルに使った。

  • MINOLTA X-7  宮崎 美子 「音楽を楽しむように撮ろう」
  • PENTAX MG   早見 優  「キミが大人になる頃、僕はプロになっているかもしれない」
  • OLYMPUS OM10  大場 久美子「キミが好きだというかわりに、僕はシャッターを押した」

そんな中、1980年宮崎美子を起用したミノルタの「X-7」のCMが大ヒット。ミノルタX-7は瞬く間に当時のベストセラーモデルとなった。(このCMはかなり有名なので説明は省略する)

オリンパスも負けてはいない。1979年のOM10の発売当初から大場久美子を起用した。

 

いやーなつかしー。私が初めて手にしたカメラはOM10で、それがきっかけで大場久美子が大好きになった。

上記動画の2本目、白いタオルを取ったら赤いビキニがでてくるタイプが最初のタイプで有名だ。

大場久美子の姿をCMのほとんどの時間カメラが追い、そこに「久美子、キミが好きだと言うかわりに、僕はシャッターを押した」というナレーションがかぶさる・・・。

この1カットだけで15 秒を成立させたCMというのはそれまでなかったらしい。そのことが評価されて、CM関連の賞も受賞したと聞く。CMとしての効果はMINOLTA X-7ほどのヒットには至らなかったのだが、作品としての評価は高かったのだ。

さて、なぜ1シーンを1カットで撮ったのか‥‥。聞くところによると大場久美子のわがままが原因だったらしい。

ロケの最中、演出家の人と大場久美子の意見がまったく合わなかった。そのために大場久美子は、半日間のストライキをして現場に行かなかったりした。

これに演出家が「じゃあ、何もしなくていいからそこに立っていなさい」と言ったらしい。それで、ニコリともしないで、むしろにらんでいるような目線で1シーン1カット‥‥。そんな裏話があって、この傑作CMが生まれたわけだ。

そんなつもりで見てみると、確かに怒っている表情にみえるな。私が子どものころの:天真爛漫の「コメットさん」のイメージとはかなり違うけど・・・。

 

最後に、雑誌のCFフライヤーを掲載。どれも実は表情の違う同じ写真を掲載していたんだね。

この広い世界で自分だけ??

この広い広い宇宙で、私たちと同じ知的生命体は存在するのだろうか?
地球外生命体はあるのか、それともないのか?
もし我々だけが特別な存在だとしたら、なんとも虚しい閉塞感と寂静感にさいなまれることだろう。

などと詩情的な言いまわしから書き始めたのだが、ふいにそれと似たような気持ちになることがある。

私以外にも OM-SYSTEM オールドZUIKOを熱烈に愛する人はいるのか?いないのか?
もし私ひとりだけだとしたら、なんと虚しく閉塞感と寂静感にさいなまれることか・・・。

私は撮影会でも、高速なAFで高い解像度が期待できる最新のレンズは(幾つか持ってはいるが)使わない。
α7mkIIにアダプターを付けてオールドZUIKOで撮影だ。もちろん最新のレンズの方がいい写りになるのはわかっている。失敗もないだろう。

だが、、なんというのか、おもしろくないのだ。

失敗しないより失敗があるほうがいい。
失敗があるからよい絵を作れるためのスキルが磨かれるはずだ。

α7mkII + zuiko50f1.8そしてなによりも「撮影する悦び」があったほうがいい。
オールドZUIKOをいじり・活用することそのものが私にとっての悦びだ。

これまでいろいろなレンズを試してみたが、各メーカごと、年代ごと、種別ごとにそれぞれ癖がある。
その癖を体で覚えて、状況に応じた対応をしてみせる。
そういう活動が「撮影する悦び」なんじゃないかなと考えている。

よりいい写真、より凄い写真を目指したいが、そういう中に悦びがなければいけないのではないか。

という私の意見はもしかして他の人に理解されるのだろうか。

近年はスマホで撮影が簡単にできる。しかもいっちょ前に優れた写真が撮影できちゃう。
その現象が原因だろう、最近はカメラが売れなくなったらしい。

そこら中のだれもがカメラマンになれる時代なのだが、私が思う「撮影する悦び」を理解できている人はどれほどいるのだろう。

ともかく、人類が遠い空の向こうに自分たちと同じ生命体の仲間の存在を欲するように、私も、自分と同じ価値観を共有できる仲間の存在を確認したいものだ。

そういう自分と共感できる人にこのサイトの情報を共有していただきたいとかんがえている。
まだまだ完成までの道のりは遠いのだが、仕事の合間でコツコツ作っていくので応援してほしい。

ということで、共感する人がいたら是非コメントいただきたい!

 

ということで、Facebookのグループを始めました。OMマニアな人ぜひご参加ください!
https://www.facebook.com/groups/omzuiko/

OMの父・米谷 美久 氏について

米谷美久氏

21世紀の現在になって今なおOM-SYSTEMを熱烈に愛するOMマニアにとって、米谷美久氏については語らないではいられない。

オリンパスの一眼レフの歴史を語る上で欠かせない技術者だ。

このサイトの自己紹介のコーナーでも述べたのだが、私は80年代初頭の高校生の頃に自分の進路について悩んでいた。

そんな折、学研のCAPAという雑誌を眺めていたらOLYMPUSの技術者である「米谷 美久」氏のインタビュー記事が載っていて、それにすごく感動したのだ。

これだ!と思った瞬間だ。米谷さんのような技術者になろう!お客様目線で、世界にない素晴らしいカメラを作るそんな仕事をしてみたい。そう思ったのだ。

結果的には別の人生を歩んで現在に至るのだが、私の人生の選択に大きく影響があった人物であるには間違いではない。

ここでざっくりと米谷氏の紹介をしよう。

米谷 美久米谷 美久(まいたに よしひさ)

1933年1月8日香川県観音寺市生まれ。少年の頃からカメラに親しみ、写真を撮ることが好きだった。大学では機械工学を学ぶ。
1956(昭和31)年にオリンパス光学工業株式会社(現在のオリンパス株式会社)に入社。カメラの設計に従事し、「オリンパスペン」(1959年)、「オリンパスペンF」(1963年)、「オリンパスOM-1」(1973年)、「オリンパスXA」(1979年)など、写真業界に一大ブームを巻き起こし、世界のカメラ史に名を残す数々のカメラ開発に携わってきた。2009年7月没。

オリンパスのHP https://www.olympus.co.jp より 

革新的なハーフサイズカメラの名機・オリンパスペンをこの世に生み出し、そしてOM-SYSTEMの開発、XAのデザイン的ヒット、そして現在のデジタルのOM-Dシリーズへと受け継がれるオリンパス一眼レフの源流を開発した米谷氏。

私はオリンパスの現在があるのも、すべては米谷氏のカメラに対する情熱と技術者としての探求心がもたらしたに他ならないと考えている。

米谷氏が主に手掛けたシリーズ、OM-SYSTEM、XAシリーズはどれもユニークで他社にないモノだった。

そしてしかもそれが現在の常識になっている。

PENの機構・メカニズムはその後あのフジの使い切りカメラ「写るんです」に引き継がれた。

OM-1(M-1)は、それまでの一眼レフの「大きい・重い・うるさい」から「小さく・軽く・静か」な一眼カメラが当たり前のようになった。

XAはカプセル式というデザインと写りの性能を両立させ、はじめてキャップのないカメラ。ポケットカメラの常識を変えた。

技術者としてすべきことは「新しい何かを作りだすこと」。技術者は技術者でも開発者でなければならない。開発者とは世の中にないモノを作る仕事なんだ。

ということを教えてくれた。私はそこにシンパシーを感じたのだ。

せっかくなので、生前の米谷さんへのインタビュー動画を紹介しよう。

PEN編(8:20)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm12720798

OM編(3:39)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm12721188

何かの参考になれば。。。

 

ネットで次のポスターの画像をみつけた。

 

当時の商品ポスター広告で、技術者が一緒に写っているなんというのは珍しい。しかも海外向けのマーケティング媒体だ。それだけに米谷氏のことは世界に認められていたということだ。

この素敵なデザインの広告には、米谷氏のメッセージが次のように記されている。

I wanted to design a camera that takes photographs no other camera can.
(どんなカメラにも真似することのできない写真が撮れるカメラを作りたかった)
I studied hands from all over the world, so the OM-1 would fit comfortably in your hands.
(世界中のひとの手を調べつくすことで、あなたの手のひらに心地よくフィットするOM-1が完成した)

<参考>
オリンパス 米谷美久が語る開発秘話 https://www.olympus.co.jp/brand/museum/lecture/vol1/

Wikipedia 米谷美久 https://ja.wikipedia.org/wiki/米谷美久/

失敗するから面白い「オールドレンズ」の魅力

今では、カメラといえば「デジタルカメラ」が当たり前の時代だが、昔は「フィルムカメラ」(銀塩カメラ)が当たり前だった。(先日社員にこの話をしたところ「フィルム」を知らない若い社員がいてショックだったが・・・。)

当時、銀塩カメラに使われていたレンズは今では「オールドレンズ」と呼ばれ、最近人気が出てきたようだ。※今更かな?
(先日、旧知の中古カメラ屋さんに久しぶりに顔をだしたら、最近久々に売れ行きがいいとのことでホクホク顔だった。前会った時は「つぶれそうだ」って嘆いてたんだけどなぁ。)

その理由の一つが、レンズ交換式のミラーレスカメラの大ヒットだろう。
この数年、キットレンズを卒業して別売レンズに挑戦する人も増えてきたが、更なる選択肢として“オールドレンズ”が注目されてきている。
最新のミラーレスカメラに専用マウントアタプターを介して往年のレトロなレンズ
をくっつけて撮影を楽しむスタイルだ。

まさにそれのスタイルを「王道だ!と思って半年前からOM-ZUIKOで始めてきたわけだ。

最新鋭レンズがその進化の過程で失ってしまった“個性”を色濃く残していることがオールドレンズならではの特性だ。OM-ZUIKOのもつ個性的な魅力をミラーレズが引き出してくれているわけだ。

かつて多くのカメラ愛好家を魅了した往年の名玉はもちろん、中堅クラスのレンズでもその面白さを味わうことができる。私のように「普通に撮るだけなのはもう飽きた」そんなふうに思い始めているカメラファンが増えているってことだろうか
今のカメラは、露出(光の量の調整)も自動だし、ピントはAF(オートフォーカス)で自動で決めてくれる。手ぶれ補正もあったりして精度は抜群。色や雰囲気まで自動で手堅くしっかり写してくれる

つまり、「失敗しない」のだ。

撮影者はカメラを向けてシャッターを押せばよい。出来上がる写真が予想どおり。何も考えなくても、見たとおりの景色をほぼ間違いなく記録してくれる。

その点オールドレンズは、ピントは手動で合わせなければならず、絞り(光の量をコントロールする機能)も手動だ。あえてオートを捨てて、マニュアル操作でいろいろ自分で考えないとならないが、それが逆に自分だけの写真を作ることができて楽しいのだ。

例えて言えば、車好きの人があえてオートマチック車ではなくミッション車で運転するようなもの。(このたとえも若い人には無理があったかな??)

また、精度も高くないのでフォーカスが甘くなったり、白飛びしちゃったりとクセが強いものが多い。でもそれが味になったり、予想の付かないものが撮れたりと写真の意外性を生み出してくれる。

どんな風に写ったかな?と結果を見るのが楽しみになるのだ。
もっと写真を楽しみたいならオールドレンズがおすすめ!

オールドレンズは種類も豊富で、中古カメラ市場でも1,000円~と安価で手に入る。掘り出し物を目当てに中古カメラ屋を回るのも楽しいものだ。

15年ぐらいの昔は、カメラといえばフィルムが当たり前で、1本のフィルムが24枚か36枚撮り。たしか1本400円ぐらい。(さらに現像費用とプリント費用が掛かり、24枚で1,000円前後だったかな・・・。)

一枚一枚が貴重でしたからシャッターボタンは気軽には押せなかった。

出来あがった一枚一枚はとても大切なもの。だから仕上がりが楽しみで、みんなで一枚一枚を楽しんだ・・・その写真の情景は強く記憶に・心に残ってきた。
現在では1枚のSDカードをセットすれば、あとは何枚でも撮れる。(16GBのSDカードで一般的なカメラで軽く1000枚以上は撮れます。メモリーが切れる前に電池が切れそうだが。。。)

撮った写真はちゃんと確認しているだろうか?あとから整理するつもりで撮り貯めて、結局パソコンにコピーしてそれっきりってことになってないだろうか?
~バシバシと撮った写真、記憶にも残らず蔵の中~
PCの不具合で消えちゃってても気づかなかったりして・・・。

最近のカメラ市場を考察して思うのは、「失敗しないから考えなくなる」「成功が当たり前に続くと過ちに気づかなくなる」ということだ。

普段の仕事の業務でもそうじゃないだろうか?
仕事がうまく行くことはいいことだが、それが当たり前に続いていくうちに、いつの間にか危機感を忘れているかもしれない。真剣に考えることが少なくなり、いざという時の対応ができないようになっているのかもしれない。記憶にも心にも残らない仕事をしているのかもしれないよね。

順調にうまくいっていて、それがあたりまえになってきた時こそ危険な時だ!

「失敗するから面白い」

失敗があるから上手くいったときの喜びや感謝が記憶に心にのこる。ノウハウがたまる。適度な緊張感が常に危機管理を呼び起こさせてくれるのだ。

事業の存続に左右する失敗は困るが、それ以外の失敗は大いに歓迎して、一つひとつの仕事を強く記憶に、そして心に残こるよう大切に進めていきたいものだ。

そして、時にはあえてマニュアル操作で、味のある仕事を楽しんでいきたいものだね。

きっかけ。

私が一眼レフに出会ったのは、1982年(昭和57年)春、高校一年生のときだ。

高校に入学して最初の友人となったY君がカメラにはまっていて「いっしょにやろう」と誘ってくれたのがきっかけ。初心者の私はY君からとても多くのことを教えてもらった。

親友であり師匠であるYは「Nikon」の大ファンで、「Nikon FE」を持っていた。新規購入でどの機種にしようかと悩んでいた私に、多くのアドバイスと彼と同じ「Nikon FE」を勧めてくれていた。

当時、多くの生徒が定期購読していた学研の「高校コース1年」という雑誌に「MINOLTA X700」のカッコいい広告をみては、CannonがいいかとかPENTAXがいいかとか、どれにしようかと随分と悩んだものだ。

結局、選んだのは「OLYMPUS OM10」だった。

予算も足りず、悩んでいるところにカメラ屋の主人が、随分と安くしてくれ「安いから」という安易な理由だけで候補にさえあがってなかったオリンパス・OM10を手にしてしまった。Nikonを推していたYは少し残念そうだった。(その数カ月後にOM20が発売されて、OM30が登場して、ちょっとショックだった。。)

当時、高校一年生が立派な一眼レフを手に入れるのにはちと無理があった。親に泣きついて、アルバイトの貯金もはたいて、で、やっと手に入れられたのが、当時、一眼レフとして「買える」レベルにあったエントリー機の「OLYMPUS OM10」だったのだ。

当初は決してオリンパスに特別な感情があったわけではない。買える一眼レフカメラがそれしかなかった、それだけのことだけれども、やはり「ひよこ」が最初に持たものを親と思う習性と同じなのか、当時苦労して手に入れたオリンパスが今でも最高の相棒に思えてならくなった。

それからどういうわけかカメラ小僧友達が徐々に増えていく。CanonのA1にはまるやつ、最初にほしかったMINOLTA X700を自慢するやつ、、、どうやら私とYとで、当時の高校にカメラ小僧ブームをつくってしまったようだ。

先生の中にもカメラ大好き先生もいるもので、、その先生を巻き込んで写真部を創設したりもした。本当は進路指導の厳しくてあまり好ましい先生ではなかったのだけれど、写真部の活動の時だけはとってもいい先生になってたりして。学校になぜか現像室があったもんだからそこが部室ともなって、天体観測やら地域の名所案内を写真で紹介するとか、、いろいろな活動ができて楽しかった。

そして高3になると、進路に悩んだ。
カメラに関係ない進路に進んだ人も多かったけれど、カメラマンを本気で目指した部員もでてきたり、師匠のYはというと、レントゲン技師になるんだと。この選択がなかなか素晴らしかった。趣味と実益を両立させていて将来性もある。。ちょっと羨ましかった。その後Yは実際にレントゲン技師として活躍していた。

私は、芸術家にはなれそうもない。職業にできるまでの自信はない。(フィルム入れ忘れて撮影していることがしょっちゅうあるぐらいだから。) それに、レントゲン技師なんてむつかしそう。

そのころ、学研のCAPA雑誌を眺めていたらOLYMPUSの技術者だった「米谷 美久」氏のインタビュー記事が載っていて、それにすごく感動した。これだ!と思った瞬間だ。米谷さんのような技術者になろう!お客様目線で、世界にない素晴らしいカメラを作るそんな仕事をしてみたい。そう思ったのだ。

そこで、そのための大学を探す。東京の大学に唯一「光学」を専門に勉強する学科があった。そこを受けよう。そう決まるとそれしか考えなかった。

が、見事に不合格。浪人でもするつもりだったけど、親が許さなかった。なので3月になって急きょ進路変更・・・そして選んだのがコンピュータの専門学校・・

大学不合格と同時に夢をあきらめた。本当はあきらめたわけではなく、親のゆうことをきいてとりあえず浪人せずに専門学校にいくことになったけれど、1年かけてこっそり勉強して、受かったら専門をやめて大学に入りなおすつもりだった。それも甘い考えで結果的にコンピュータの勉強が面白くなってきて、結局ITの仕事で長年生計をとってきた。

しばらくはカメラとは無関係の生活を送ってきた。
まあたまに頼まれて結婚式に写真を撮るとかそれぐらいしか触らなかった。趣味ではない。趣味は完全にIT関係になっていたから・・・。

ところが、高校卒業からちょうど30年後の2015年になってふたたびOLYMPUSのカメラを手にすることになった。

きっかけは、2つある。一つ目は自分の会社の社員がもっていたOM-Dを触ったこと。
電気がはしる。「なつかしー」「なんか変わってない!」あれから30年の時を隔てて、よみがえるよみがえる。 なんとOMも終了しデジタルとなった今でも、DNAは受け継がれているのだ。そんなことが製品を手にして感じられた。
なんか感動した。

二つ目は、あの親友で師匠だったYが突然の病でこの世を去ってしまったことだ。
まだまだ若いのに・・。さぞかし無念だったろう。人生のはかなさを感じた。
生きているうちになにかを残さねば。Yの分も悔いのない活動をしていい作品をのこさねば。

それから、昔あつめたレンズ群を押しれから整理しはじめ、昔を懐かしつつ、OMを活用していい写真づくりを始めた次第だ。
それが写真活動の面白さや魅力を教えてくれたYへのせめてもの恩返しになるだろうか。どうか行く末を見守っていただければありがたい。